後宮の涙3
2014年3月13日7:00 公開
無事、終わりましたね~このドラマも。
しっかし本当に突っ走ったドラマでしたね。
何だか私は思いっきり置いてけぼりを喰らわされたような気がします。。。
終わってみれば、ドラマチックで面白かったですが。
やっぱりどうしても無理があるっていうか~登場人物達の行動原理が理解出来ない感が大きいデス、本当。
とにかくみんな、素直になれ!正直に話せ!というのが、感想です、ハイ。
思うに制作者側の意図としては、とにかく基本路線は史実に合わせたれ!って事なのでしょう。
ここら辺は、個人的には大いに肯ける所でありますが。
何でもかんでも無理矢理悲劇、というより、主人公カップルの恋愛を悲劇にしよう!としている所、基本、正直、暢気~で我が儘勝手同志なバカップルをシリアスに見せようとしている所に無理が有り過ぎる、気がします。
ま、登場人物達の性格、っつーか、挙動設定に無理有りってことかなぁ。
……うん、やっぱ曲がりなりにも作り手としては、要注意な点かもv
ところで、「陳の文帝」というのは、「蘭陵王」の誰に当たるのかな~と思って、調べて見ました☆
以下、みんな大好き♪wikipediaから、引用です。
文帝
(陳)
文帝(ぶんてい)は、南朝陳の第2代皇帝。初代皇帝・武帝(陳霸先)の甥。姓は陳、名は?。(「くさかんむり」に……う~ん、これは何という字かな、つぶれてて分かり難い~^^;にんべんに靑?)側近の韓子高と男色関係にあったことで知られている。
【生涯】
陳霸先の長兄陳道談の長男として生まれた。叔父に従って侯景の乱の討伐に従軍し、呉興郡太守となった。宣城郡から紀機・?仲らが侵入してくると、これを討って平定した。承聖2年(553年)、信武将軍の位を受け、監南徐州を務めた。承聖3年(554年)、陳霸先が北伐して広陵を攻撃すると、先鋒として活躍した。天成元年(555年)、陳霸先が王僧弁を討つにあたって、王僧弁の娘婿の杜龕が呉興郡に拠っていたため、陳?は陳霸先の命を受けて郷里の長城県に帰り、杜龕の進攻に備えた。陳?はわずかな兵で杜龕の部将の杜泰と対峙し、撃退に成功した。陳霸先が周文育を派遣して杜龕を討たせると、陳?は周文育に合流した。陳?は将軍の劉澄・蒋元挙に杜龕を攻撃させて撃破した。東揚州刺史の張彪が臨海郡太守の王懐振を包囲し、王懐振が救援を求めてくると、陳?は周文育とともに会稽に赴いて張彪を攻撃した。張彪の部将の沈泰が開門して陳?を迎えたため、陳?はその兵を併呑して張彪を撃破した。功績により使持節・都督会稽等十郡諸軍事・宣毅将軍・会稽郡太守に任じられた。また少数民族の山越の乱を討った。
永定元年(557年)に陳霸先が陳が建国すると、臨川郡王に立てられ、侍中・安東将軍の位を受けた。周文育と侯安都が沌口で王琳に敗れると、陳?は武帝のもとで軍事を委ねられた。まもなく兵を率いて南皖に築城した。永定3年(559年)6月に武帝が崩御すると、章太后の命により南皖から召し出されて即位した。
在位中は北周とのあいだに和平を結び、王琳を郢州から追放して、北斉の介入を退けた。また各地に割拠する周迪・留異・陳宝応らの独立勢力を撃破して、江南における陳の支配を確立した。その後は賦役の減免・奴婢の解放・倹約令の奨励など、内政に力を注いで陳の国力基盤を固めた。
だそうです。
でもって、wikipediaの「蘭陵王」の欄を見たら、宇文よう(だったかな?これまた字が特殊文字^^;)=武帝、だそうで。
うっは~。
な、なんかイメージが。。。
(いや、色々詰まらない謀を巡らせるってのは共通してるかも~だけど、ち、違う~っ)
なんだか色々ショッキングだなぁ。
ま、制作サイド違うんだろうし、目指す所も全然これまた違うんだろうから、しょうがないけれど。。。フュージョン過ぎるのもある意味問題あるかも、などと思った次第です。
って、全然ドラマ感想じゃないよ!
いや、無理矢理メロドラマだと思ってれば間違いナシ!だと思います、ハイ。
あと中国ドラマって、何だかすぐ血吐きますよね。(「宮廷の諍い女」でもファンファン、血吐いてたなぁ)
それから、くるくる廻る当て馬君ですが。
実は陸貞の本当のお兄さんってオチなのかな、って勝手に思ってましたが違うみたいですね。
いや、皇后サマ達の語りだけで片付けられた、陸貞の出生の秘密でのエピソードと、当て馬君告白話が重なってた気がしたので。
でも考えてみれば、文帝のお后様も川に身投げしたらしいから。どうやら、このドラマでは困った時は川に落ちるがデフォルトって事なのね、きっと。
とにかく無事、一通り見終わって満足♪
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