チャン・オクチョン
2014年8月28日7:00 公開
気になって録画してます♪
いやーやっぱりオクチョン様のドラマはね~押さえておきたいですよ、ハイ。
ただチラ観したところ、何やらすっごく若手(?なイメージ。違うかな??)俳優陣さんでキラキラフュージョン時代劇な模様です。
あ~でもオクチョン様役の女優さんが好きだから、嬉しいわv
(「王女の男」の彼女ですよね??)
初回、世子(後の粛宗様v)とオクチョンの初対面(正確にはどうやら再会らしい)がメインで、その後しばらく過去の子役話~という作りでしたね。
で、世子様、なかなかきりりとしたイケメンさんですが。
うーん。。。なんだか格好良過ぎる気がして、私の粛宗様イメージと合わない!(って)
いや、私の中では粛宗様って家臣相手にプンプンしたり、オクチョン様のヨヨヨ演技に騙されてホロリとしたり、影からこっそり、下級女官達を品定めしたり、という感じなんですが。
あとプラス、「トンイ」での通り、馬には何十年かけて乗れるようになったけど、本当はブレーキのかけ方知らないんだ、テヘvとか、弓は苦手なんだもん!でも剣は重いから持てないヨ!民は大事だけど拷問はもっと大事!という人格な気がしているんですが~。(ってメチャクチャ捏造&偏見入ってますが)
このドラマ、粛宗様、もとい世子様、本当に格好良いです!(大事な事だから繰り返してみました☆)
思いっきりアクティブだし、粛宗様がこんなに強いなんてーとか、ワイルドに戦っちゃうなんて~との感動が大!ですねぇ。
そういえば、粛宗様ってものすごく幼くして即位した的な話を聞いたか見たかしたことがあるような気がしたので。
ここでもいつも通り、、Wikipedia様にお願い☆です♪
「
1661年8月15日
(旧暦)に生まれ、1667年に王世子に冊封、1674年8月に14歳で朝鮮国王に即位する。垂簾聴政を受けず、直接国を統治した。
粛宗が朝鮮を治めた期間は、朝鮮建国以来、党争が最も激しい時期だった。在位中に南人と西人の党派対立関係が激しくなり、1680年、南人の専横に歯止めをかけたい粛宗が南人を大量に追放した庚申換局(韓国語版)(キョンシンホァングク)を契機に、西人が老論と少論に分裂してこれらも互いに党派争いをするようになった。そしてある党派が違う党派を完全に追い出して一党による政治、換局政治が主たる現象となった。
粛宗の治世はさまざまな政治論争で一日も静かな日はなかった。仁顕王后を中心にする西人と禧嬪張氏を中心にする南人が対立した。仁顕王后が結婚してから6年以上子供を生むことができなかったので、後宮である禧嬪張氏が生んだ王子を王世子に冊封する問題で、南人と西人がひどく対立した。結局西人が流配されたり殺されたりして、仁顕王后が廃位される己巳換局(韓国語版)(キサファングク)が1689年に起きた。この事件で禧嬪張氏は1690年10月22日に王妃となり、彼女の息子は王世子に冊封され、南人が政権を独占するようになった。しかし南人政権の期間も長続きせず、1694年甲戌換局(韓国語版)(カプスルファングク)で反転された。その頃粛宗は王妃張氏に対して良くない感情を抱くようになり、仁顕王后を廃位させたことを後悔していた。仁顕王后復位を計画した西人は南人によって監獄に閉じこめられていたが、粛宗は南人を朝廷より追放して西人を政権につけ、1694年4月12日、王妃張氏を嬪に降格、かくして仁顕王后は王妃に復位した。復位6年後に仁顕王后が亡くなると、仁顕王后を呪ったとして1701年10月10日、禧嬪張氏は賜薬により処刑された。
しかし党争は西人と南人の対立で止まず、西人がまた老論と少論で分離して対立するようになった。
粛宗はさまざまな党派争いで弱くなった王権を回復し、勢力が強い朋党の力を弱化させるために、政権党を入れ替える「換局」を3度行った。そのために粛宗の治世を“換局政治”と称することもある。粛宗は換局によって朋党内の対立を触発、臣下間の政争を激化させると同時に王権を強化して国王に対する忠誠心を誘導した。そしてこのような換局政治を通じて強化された王権を土台に、民生安定と経済発展に相当な業績を残した。粛宗はまず、光海君以後実施して来た大同法を慶尚道と黄海道まで拡大させ、初めて全国的に実施するようになった。そしてこの時から活発になり始めた商業活動を支援するために常平通宝を作り、広く使用するように奨励した。そして文禄・慶長の役と丙子胡乱以後、混乱から脱け出すことができなかった社会を全般的に収め、整備して安定期を謳歌する政治功績を残した。
また清と国境紛争が起きると、交渉して1712年咸鏡道観察使李善溥に白頭山山頂に定界碑を立てさせ、国境を定めたりした。そして日本に派遣した通信使(朝鮮通信使)に幕府と交渉させ、日本人の竹島(現在の鬱陵島)への立ち入り禁止を保証させた(竹島一件)。また通信使を3度派遣(1682年、1711年、1719年)し、倭銀使用条例を定めることで倭館貿易を整備させた。その他にも王位を奪われて亡くなった魯山君を復位させて端宗という諡号を贈ると同時に死六臣の名誉も回復させ、廃庶人となった昭顕世子嬪姜氏(粛宗の祖父孝宗の兄・昭顕世子の妃)を愍懐嬪に復位させた。
しかし粛宗の王権強化政策は、政治勢力を徹底的に利用しなければならない側面があるため、絶対的王権は粛宗の治世で終わりとなり、粛宗のように力強い王権を持った王は二度と出なくなった。
1720年60歳で薨去。在位期間は46年。御陵は西五陵の一つ、明陵。
」
ちょっと長かったかな。
うーん、つまりは、14歳で即位してますね。
ドラマでは今現在世子なので……ど、どうなんだろ。
14歳には見えないけどな~。
っていうか、子役時代、オクチョン様と初恋ラブラブな頃が14歳イメージだけど、確か本人は「12歳になったら男は云々」とか言っていたような。(違ったっけか??)
たった2年でスコーンとオクチョン様のことを忘れてしまうというのも不自然なので、やっぱ、5、6年は経過しているんじゃないかと思ってるんですが。(説明あったかな~?)
この辺り、ドラマサイトで確認しないと~ですね。
ま、でも、明らかに史実重視ではないドラマですから(だってオクチョン様ってば、デザイナー志望なんだものね~)、関係ないっていうか、寧ろ、無視すべき問題でしょうね、ハイ。
それにしても、私が今迄観ていたドラマでは非常に影が薄い、もしくは善良官僚タイプ(あるいは全然出てこなかった^^;)仁顕王后パパが、このドラマではどうやらトップヒールを割り当てられているみたいです。
あと、粛宗のママが……何だかちょいさもしい感が。。。
いやー育ちが良い&王妃様なんだから、あんな宝飾品如きで籠絡されて欲しくないんだけれど。
(ま、仕方ないのかな)
オクチョン様メイン&オクチョン様を正義、というより時代に関係なく己を貫く現代的女性として描く為、なのか、仁顕王后も性格が微妙な描かれ方をしているような印象を受けました。
ま、これから変わるのかも、だけど。
そういえば、初回?にちらっとトンイも出て来ましたが。
手癖&根性悪いひねくれ者って感じでしたね☆
ってそれで、粛宗サマ、手を付けちゃう訳ですか、そうですか。
うーん、やっぱりオクチョン様や仁顕王后がどんな描かれ方をしようが、あるいはそれ故にこそ、粛宗サマの嗜好には諸々疑問を覚えるってのはデフォルトになっちゃいますね☆
本当は、自分の恋愛感情などではなく、寧ろ政治観やその時々の政局重視で王妃のすげ替えもしていたような気もしますが。
とにかく今後がちょっと楽しみなドラマ。
一体どの辺り迄、またどういったオチを付けてくれるのかが非常に気になります♪
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